今から100年以上前の1918(大正8)年の夏、川西村(当時)の猪名川河川敷で、飛行機が飛ぶところを一般公開するイベントがあったそうです。
『川西市史』第3巻の236ページにこんな記述があります。

…しかし、米騒動で全国主要都市が荒れていた最中の大正7年8月11日、川西村出身の民間飛行家福永朝吉が猪名川小花河原から豊中グラウンドまで複葉機で飛行するというので、川西村で福永の後援会がつくられ、当日は多数の観衆がおしかけて離陸を見送ったという(『朝日新聞』8月12日付)。飛行機が珍しい時代とはいえ、米騒動の真っ最中に多数の群衆が飛行観覧を楽しむことができたのである。…

このころは飛行機がまだまだ珍しかった時代。今の時代でいえば、大阪・関西万博で空飛ぶ自動車がでも飛行をするようなものでしょう。詰めかけた観衆の熱気を感じます。

また、同書第6巻(資料編)の569ページには、このイベントの観覧優待状が載っています。

大正七年八月七日
東谷村役場
各区長殿
本郡川西村出身飛行家福永氏来ル本月十一日飛行セラルベク候ニ付テハ同村後援会ヨリ貴職ニ限リ優待券幷ニ徽章送付越候条観覧希望ニ候ハゞ至急当役場へ申越相成度候
追而前日正午迄ニ申越無之候ハゞ希望ナキモノトシテ処理可致ニ付申添侯

東谷村は能勢電鉄の山下駅を中心としたエリアで、1954(昭和29)年に川西町(当時)と合併しています。
このイベントは周辺の村も巻き込んだものだったようです。

謎のパイロット・福永朝吉さん

さて、気になるのはパイロットの「福永朝吉」氏が川西村出身であるということと、この飛行イベントそのものが今では街の記憶からほとんど消え去り、福永さんの消息も不明であることです。

試しにネットで「福永朝吉」を検索しても何も引っ掛かりませんでした。

福永さんはどんな人だったのか?なぜ川西で飛行機を飛ばしたのか?その後はどうしたのか?…
謎が多いので調べることにしました。

まずは文中にあった「『朝日新聞』8月12日付」の記事を確認することから始めました。
ところが、図書館で同紙のデータベースを検索しても、なぜかこの記事は見つかりませんでした。

記事はページとページの間にあった

こんな時は、わがマチノキオクカンの“歩く新聞データベース”、Nさんの登場です。彼に頼むとあっという間に記事を見つけてくれました。
記事は『大阪朝日新聞』の神戸版に載っていたそうです。

新聞紙の見開き2面の間の折り曲げる部分にまたがって記事が載っています。
少々不思議なレイアウトの記事ですが、当時の新聞では普通だったそうです。
ただ、記事の一部が不鮮明で判読不可能でした。

『大阪朝日新聞』大正7(1918)年8月12日夕刊
豊中着陸の際 機体破壊/福永氏は無事
民間飛行家福永朝吉氏は、出身地兵庫県川辺郡川西村小花河原より府下阪神急行沿線豊中グラウンド間の往復飛行を11日午前8時より挙行することとなり、未明より複葉トラ(1行不明)より起こる⚫︎手の声に送られ、轟然たる花火を合図に南に向かって滑走70メートルで離陸し、池田町川西村の上空を2周した後に豊中に向かって300メートルの高度にて飛行した。
朝から曇りだったが風はなく、絶好の飛行日和だった。豊中で(1行不明)松林の上に機影を現し、東に半円形を描いて急角度の着陸をしようとしたが、着陸場が狭隘だったので遂行できず、再び西方に向かって南に回転して南方の建造物の屋根上より北に向かって急角度の着陸を行ったはずみにプロペラ(1行不明)3間を走って機首を地中に突込み、機は逆立ちとなって転覆した。
幸い福永氏は負傷なかったが、機体や右翼、吸入管、冷却器等を破損したので、直ちに解体し手東京に向け発送し修繕を行い、来たる9月中旬に再度の飛行を行うことと…(以下不明)

当時の新聞の日付は今と異なり、8月11日に「11日付朝刊」と「12日付夕刊」が発行され、翌12日「12日付朝刊」と「13日付夕刊」が発行されていたそうです。
よって、この記事は11日の出来事をその日の夕刊で”速報“していました。

記事から推定する航路はこんなかんじでしょうか。

翌日の「12日付朝刊」には写真が掲載されていました。

これで福永さんの飛行の様子は分かりましたが、福永さん自身のことはなおも謎のままです。
さて、ここからどうやって調べるか、悩んでいました。

その2に続く)

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