このたび、「マチノキオク博2024」を観覧いただいたご子息を通じて、尼崎市在住の井上雄次様から昭和20〜40年代の能勢電鉄や阪急電鉄、国鉄の写真のご提供をいただきました。
このページでは井上様から頂いたコメントと共に貴重な写真をご披露いたします。
(それぞれの写真をクリックすると拡大します)
「亡兄・文雄が大学生時代に撮影していた昭和20年代後半の川西市内の鉄道情景と、井上雄次(私)が撮影した昭和30年代後半から40年代前半にかけて撮影した能勢電の鉄道情景です。」
能勢電鉄
猪名川橋梁をわたる能勢電車2題。
いずれも31形の31号車で、1枚目は矢問の駅を出てレールはほぼ直角にカーブして橋梁にかかったところを走行する妙見口行です。
電車の下に見える道路は現在の県道12号線になり、左に行くと能勢口駅前を経由して伊丹、尼崎に向かいます。
写真の左端には階段が写っていますが、もしかして矢問の駅につながっていたのでしょうか。
撮影:1957年11月2日 井上文雄
能勢電猪名川橋梁 矢問駅付近
【マチノキオクカン補】「幻の」矢問駅に関する情報を探しています。ご存知の方はこちらまで。
2枚目は1枚目と同じ31号車で、妙見口発能勢口行です。
猪名川橋梁を1枚目とは反対方向に見た写真になります。
鉄橋の奥に道路があり、多田に向かいますが、線路は道路の右端に敷かれていた併用軌道でした。
鉄橋のすぐ奥の道路際には鼓滝駅が見えています。
この駅前から鉄橋渡ってすぐの踏切は国道173号で、阪急池田駅に向かう道路です。
この写真の橋梁は現在の能勢電猪名川橋梁の上流にあり、現在の銀橋の下流の位置にありました。
撮影;1958年8月16日 井上文雄
猪名川橋梁鼓滝駅付近
能勢電31形が猪名川沿いの線路をとコトコと走り、川には舟や釣り人かと思われる人影が岩の上に見えます。
この時代、ここは遊泳場だったはずですが水面に人影は見えません。
少し水位が高いようにも見えます。
【マチノキオクカン補】鶯の森付近の猪名川にあった鶯の森遊泳場は、昭和34(1959)年の伊勢湾台風で壊滅しました。
撮影:1953年8月16日 井上文雄
鶯の森~矢問間
春の彼岸すぎ、多田を出て鼓滝に向かう能勢電32号です。
頼りなげな架線柱、道路に埋もれそうな線路をたどって電車はもたもたと進みます。
この31形はその後、鋼体化改造を受け、上半ホワイトベージュ、下半ブルーの塗装になりましたが、この写真は木造オリジナル時代。
道路はご覧の通りの地道で、私も歩いたことがありますが、自動車が通るとモウモウたる砂埃がたち、写真に見える雑草も砂ぼこりで真っ白けであります。
撮影:1954年3月25日 井上文雄
多田~鼓が滝間
能勢電31形の中で、この33号車だけが運転台正面向かって左の窓に横桟が見えます。
かなりな山中なので一の鳥居よりも奥側(妙見口側)のどこかの場所での撮影かと想像しています。
バラストが真新しいです。
【マチノキオクカン補】運転席上部の行先表示板には「池田駅前」とあり、前のポールは降ろされ後ろのポールが上がっているので、写真は南から北に向かって撮られたと思われます。
撮影:1952年11月2日 井上文雄
場所不明
1936年から62年までの間、阪急40形5両のうち3両を能勢電が借り受けていた時代の写真です。
場所は鶯の森~矢問間。
手前の県道12号線からの撮影で、電車は能勢口に向かっています。
写真の手前に謎のレンガ積みの築堤部が見えます。
撮影:1952年11月2日 井上文雄
矢問(当時)~鶯の森間
元阪急37形を能勢電が譲り受けて70形として運用していた木造車を1953年夏にナニワ工機で鋼体化改造して新に50形として登場させたものです。
写真は工場から到着直後、営業運転に入る直前の撮影と思われます。ぴかぴかに輝いています。
撮影:1953年7月27日 井上文雄
絹延橋車庫
50形に改造される直前の木造車、能勢電70形、71号車が荷物車として使用されていた姿です。
元は阪急の37形です。
複線対向型ホームであることや背後の山の形から畦野駅での撮影と思われます。
撮影:1957年11月2日 井上文雄
能勢電37形です。
能勢電が31形を新造したのちも車両不足に悩んでいた能勢電が1933年に新に九州電鉄から購入した車両2両が37形の37号車と38号車。
50形、60形の登場に伴い1958年に廃却となりました。
写真は廃車直前の37号と38号です。
撮影:(37号車)1953年8月16日
(38号車) 1953年7月27日
共に 井上文雄 絹延橋車庫
1960年代に入ると能勢電は輸送量増加に対応するため阪急電鉄から320形の借り入れ(のち譲渡受け)を開始し、引き続き500形を導入しました。
写真はヘッドライトが取り外されていますが、運搬上の都合があったのでしょうか。
おそらく搬入直後の1965年秋の撮影と思われます。
搬入当初は平野車庫が未完成で能勢電の各駅に留置されていたと言います。
撮影;井上雄次 場所不明
「妙見・川西能勢口間」の運行標識板を掲げて笹部付近を行く元阪急のデロ10形です。
撮影者が高校生の1962~1964年に撮影しました。
記憶では鉄道研究部の能勢電探訪の際の撮影で、1963年初夏ではなかったかと思います。
撮影;井上雄次 笹部付近
能勢電が阪急からの譲渡うけた木造車、デロ10形が珍しくも架線修理のヤグラを牽いて走り去る情景です。
ヤグラは木造です。
小さなホームは当時の笹部駅。
高校生時代に鉄道研究部の能勢電探訪時の撮影で、おそらく1963年初夏の撮影です。
撮影;井上雄次 1962~1964年
笹部
阪急電鉄・宝塚線
阪急宝塚線の猪名川橋梁(能勢口‐池田間)をわたる阪急電車(500形)4連です。
500形は戦前に製造された宝塚線用の小型車両で、いずれの写真も4連での運用中の姿。
ちなみに猪名川橋梁の西方に位置する川西能勢口駅は当初、能勢口駅と称して大正2年、能勢電気軌道の開業と同時に開業されました。
川西市から市名を入れるように要請をうけて1965年4月、まず能勢電側の駅名が川西駅となり、その3か月後には阪急側、能勢口側とも川西能勢口駅と変更されました。
撮影:1953年8月16日 井上文雄
阪急宝塚線猪名川橋梁(2枚とも)
阪急宝塚線、川西能勢口駅西方の高架を行く阪急2100形です。
2両目の下に、能勢電の国鉄川西池田駅行きの線路が見えます。
背後は五月山と思われます。
撮影;井上雄次 1965~1969年 川西能勢口駅西方