(その1から続く)
川西村の福永朝吉さんが多くの人々の前で自慢の飛行を披露して大喝さいを浴びたことや、着陸に失敗して機体がひっくり返ったことなどが、当時(1918=大正7年)の新聞記事で分かりました。
しかし、ネットで「福永朝吉」を検索してもヒットせず、福永さんがどんな人だったのかや、なぜ飛行家になったのかなどは不明のままでした。
『日本航空史』に飛行会の記事があった
悶々していたある日、ふと思いついて「日本の飛行史」「大正」で検索してみると、『日本航空史 明治・大正編』というPDFファイルが出てきました。原書は(財)日本航空協会が昭和31年に発刊した900ページを超える大著で、同協会がデジタル化されたものです。
特筆すべきは、単なる画像PDFファイルでなく、テキストを埋め込んでいることです。これによって、PDFファイル内を自由にテキスト検索ができ、1頁1頁繰るよりも探し物があっという間に見つかります。
この協会のWebサイトの「アーカイブ」ページには貴重な史料が多数、デジタル化されて掲載されています。ここまでガチにやっている団体はなかなかありません。私たちも見習います(勝手に、ですが…)。
さて、同書のPDFファイルで「福永朝吉」を検索しましたが、やはりヒットしません。「ここでもダメか…。」と心が折れそうになりました。
しかし、同書は編年体で書かれているので、気を取り直して、福永朝吉が飛行した1918(大正7)年の項を繰ってみました。すると、360ページにこのようなことが書かれていました。
「この頃、大阪府下池田町の人、福長朝雄氏が伊藤氏を頼って上京し、グレゴアジープ式四五馬力複葉機を譲ってもらって練習を始めていたが、他の練習生と違ってなるほどじまえの飛行機だと上達も早く、わずかに四時間足らずの延べ時間で単独飛行に進境し、四月二十日から最初の練習を始めて五五日目には早くも東京の入口まで往復飛行して伊藤飛行機研究所第一号の卒業免状を得るという快速ぶりを示した。練習生の中には京都の杉本信三、東京の信田五平治、青島利三郎氏などがいて、福長氏もしばらくは山県氏とともに後進指導の一役を買っていた。」
おお!? 「福長朝雄氏」??
しかし、「大阪府下池田町の人」となっているが…。
もう少し読み進めると369〜370ページには、
「それからさきにイの一番に伊藤飛行機研究所の免状をとった福長朝雄氏も郷土訪問に勇み立って八月十一日、山県豊太郎氏がつき添ってグレゴアジープ式四五馬力の自製機で大阪府下池田町の猪名川原で飛行会を開き、わが家の上空池田町を飛んでから附近の豊中野球グラウンドに着陸しようとしたが場内が狭すぎたので大胆な急降下で着陸の際、誤まって機首を打ちつけ、福長氏は幸い無事だったが機は転覆大破して、これもまた大修理を施さねばならぬはめになり、郷土訪問飛行は由来、とかく事故を起し勝ちであつた。」
福永朝吉=福長朝雄?
8月11日…猪名川原で飛行会…豊中野球グラウンド…機が転覆大破…といえば、福永朝吉さんの飛行と全く同じではありませんか。ただし、「大阪府下池田町の猪名川原」とか「わが家の上空池田町」など、微妙に異なる部分はあります。
何よりの疑問は名前が「福長朝雄」と書かれていることです。福永と福長、朝吉と朝雄と微妙にずれていますが、状況証拠から考えて同一人物と考えるのがよいでしょう。
同書には翌1919(大正8)年の福長朝雄氏の記述もあります。
「このころ山県氏一門の福長朝雄氏は五月末、大阪城東練兵場で飛んでいたが久しぶりに住居のある府下池田町訪問を企てて二十九日午前十一時、練兵場を飛び出し、東成郡中本町の上空へ三〇〇メートルくらいでさしかかると発動機に故障が起って来た。そこであたりを見まわしたが格好な場所がなく、まごまごしているうちにずんずん高度をおとして附近の照円寺という寺の真上に降りてしまった。これを修理して六月十八日、今度は池田町へ持っていって飛んだが離陸早々、場内の立木に接触してまたもやみ、この前の豊中運動場の事故といい、はなはだ面白くない。実はこの地方に本拠を構えて練習所を起す計画をしていたおりとて気を腐らし、「大阪は性(しょう)に会わん」とばかりに、他を物色し、弟の四郎、五郎両氏などと手分けして東海道の沿線に候補地を探すことになった。」(P405)
ここでも福長さんは(大阪府)池田町に住んでいたことになっています。池田町(現在の池田市)と川西村(現在の川西市)は猪名川を挟んで隣同士なので、混同されているのでしょうか?
「この時、さきに練習所の敷地を探していた福長兄弟は、郷里の静岡県浜名郡にほど遠からぬ天竜川沿いの盤田郡掛塚町はずれの草原に格納庫を建てていた飛行場は地続きの河原で、福長飛行研究所と名乗りを上げ、陸軍払い下げの中古ルノー式七〇馬力発動機を一台手に入れたものの、飛行機はどうやって造るものか、そのへんのことは皆目わからず、一人では心細いので雑誌「飛行界」の主筆をしていた浅見富蔵氏を招いて相談相手とし、練習機の設計製作をやってもらうことにした。」(P408)
1918(大正8)年に福長さんは川西村(池田町?)を離れて郷里の静岡県に活動の場を移したようです。
その後の福長さんは浜松をベースにして飛行機の製造に乗り出すわ、飛行場を作ってしまうわと精力的に活動をつづけ、日本航空史に多大の功績を残した偉人となられてようです。実はすっごい人だったのです。
福長浅雄(朝雄)さんは浜松の、日本航空史上の、大偉人
こうなったら「福長朝雄」でネット検索です。
たくさんの情報がヒットしました。出るわ出るわの入れ食い状態です。
まずは定番ウィキペディアから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%95%B7%E6%B5%85%E9%9B%84
名前は「朝雄」ではなく「浅雄」となっています。多くのWeb記事でも「浅雄」と書かれていますが、ウィキの注釈には、戸籍上は「浅雄」だが実際は「朝雄」であると書かれています。
ウィキの記事には川西村での飛行のことは出てきませんが、福長さんは少年期に川西村に移り住んで、兄と一緒に製材所を構えたと記述されています。これは川西市史の記述(福永氏は川西村の出身)を覆す新事実ですね。なぜ川西?の謎は残りますが。
(ウィキの注釈の出典ページは2024年7月現在、リンクが切れています。)
さらに、地元・浜松には「福長浅雄検証委員会」があるとか、福長さんの母校の飯田小学校には顕彰碑やモニュメント、「福長コーナー」まであるとのことで、ネット上には同校の子どもたちが紙飛行機を飛ばすイベントの様子も上がっていました。
どうも福長さんは浜松市の市民ならだれでも知っている大偉人のようです。日本の航空史に名を残したエライ方と川西はご縁があったとは驚きです。
(その3に続く)