去る2026年4月8日の日本経済新聞に「戦前の空撮写真をアーカイブに 日本航空協会」という記事が掲載されました。
日本航空協会のウェブサイトを見に行くと、「航空遺産ギャラリーに『大阪飛行機研究所の空撮写真コレクション』を追加しました」とあり、「1934年から1938年に存在した大阪飛行機研究所という民間の航空事業会社が関西を中心に関東、中部、四国で撮影した写真のコレクションです。工場の他、学校や商船、町並みなど138件、414枚の写真をご紹介します。」と書かれています。
その先のリンクページに詳しい説明と写真に一覧が載っていますが、写真群の一番下の方に「未詳」としてどこの何を写したものなのかよく分からない写真が4枚載っています。
ちなみに、当初の公開時には「未詳」とされていた写真1枚は、わがマチノキオクカンのメンバーである西村氏が場所の同定に成功し、「未詳」グループから外されています。
さて、残る4枚のうち、「137. 未詳の工場 その1」について場所の同定を試みます。
写真1

写真2

写真3

日本航空協会のウェブサイトには
「裏書きには『播州高砂 野田醤油株式会社工場』とあるが、そうであれば、現在はキッコーマン食品(株)高砂工場がある兵庫県高砂市荒井町ということになるが、地形が合致しないため、裏書きは間違っていると判断した。詳細は未詳」
と記述されています。
確かに地形からは高砂市ではなく別の場所と思われますが、さて、どこなのでしょうか。
撮影場所を特定する鍵は
・工場が撮影の目的のようだ
・(写真1)工場の煙突の隣に円筒形の構造物があり、そこに文字が書かれているようだが解像度が低くて読めない
・工場に沿って鉄道が走っている。単線か?
・(写真1)曲がり方が特徴的な川
・鉄道と山の間に幹線道路が走り、その両側に集落がある
・(写真2)上部に運河?滑走路? その右はクルッと曲がった大きな川?
・(写真3)幹線道路にはバスが走っている。また、沿道の商店に看板が掲げられているが、これも読めない。
といったところでしょうか。
場所の同定は宿題にします。
分かった方はお問い合わせフォームからご連絡ください。
干拓地か?
マチノキオクカンの4月例会で上記の写真について議論しました。
その中であるメンバーから「水田?が広がっている様子から、干拓地のように思う。」との指摘がありました。
確かに人工的に整備された耕作地のように見えますね。
ということで、「干拓地」を手掛かりに撮影地を探すこととしました。
関西から近いところでは、児島湾干拓地があります。
地図で確認してみましょう。

地図をよく見ると、干拓地の中に細長い筋のようなものがあります。
拡大すると…

よくわかりませんが、干拓地における灌漑施設ではないでしょうか。
そして、上の写真2の上部左右に写っているものもこれと同じような施設である可能性が高いです。

しかし、写真2と見比べると、鉄道から灌漑施設(?)までの距離感や、水路の形状・配置が地図とは異なっています。
さらに、写真3を拡大して見ると、写っている線路には架線柱が立っていて、電化路線であることが分かります。

児島湾干拓地の近くを通る国鉄(当時)宇野線が電化されたのは1960(昭和35)年10月のことでした。
この写真が撮影された当時(昭和初期)は非電化路線でしたので、写真は児島湾干拓地ではないことが証明されます。
では、干拓地の範囲を日本全国に広げて調べることにしましょう。
続きをお楽しみに。
高解像度の写真を入手
日本航空協会のウェブサイトに掲載されている写真は解像度がやや低かったので、協会にお願いして高解像度の写真データをいただくことができました。
すると以前はよく分からなかった細かい部分が見えてきました。

まず、水路の特徴的な逆S字カーブです。
鉄道との交差部分がよくわかります。
この規模の水路なら、この形状は現在も残っている可能性が高いでしょう。
地図上で探す際の大きなヒントになります。

鉄道線路の左側には16〜17メートル級・2両編成?の電車が走っているのがわかりました。
また、その道に詳しい人からは「これは狭軌だろう」との見立てをいただきました。
鉄道は「複線・電化・狭軌」であれば、大都市近郊の国鉄線、または私鉄線の一部(標準軌の阪急や山陽電鉄などは対象外)に絞られます。
この写真の場所特定には、やはり鉄道と水路が重要な役割を果たすでしょう。

先に「灌漑施設か?」と思われていたものも、姿形が見えてきました。
大きな水路のように見えます。
途中に橋のようなものが架かっているので、空港の滑走路ではないでしょう。
手前の田んぼ(干拓地?)は途中から区画の向きが変化しているのが気になるところです。

背後の山の中に学校か神社のようなものが見えます。

ボンネットバスが走る道に面している商店の看板には、右から左に「山田呉服店」と書かれていました。

工場はノコギリ屋根などの特徴から紡績系の工場と思われます。
煙突や給水塔と思われる塔に工場名や企業名が書かれているのではないかと期待したのですが、拡大しても文字は現れませんでした。
一方で、事務所っぽい立派な建物の正面上部にある丸いもの(赤い円内)は会社のマークかもしれませんが判別できません。
かなりたくさんのヒントが出てきました。
これをもとに写真が撮影された1935年前後の地形図を確認していきます。
ゴールまでもうあと一歩?
遂に、発見! 撮影場所は…
マチノキオクカンの5月例会の後の“反省会”においてもこの写真について議論しましたが、答えは出ませんでした。
「写真にはヒントが多すぎるのに(撮影場所が)わからないのが不思議だ。」
とか
「もしかして外地(朝鮮や台湾など)ではないか?」
「外地で『山田呉服店』という看板が出るか?」
「日本領だったから漢字の看板もあり得るぞ」
という意見まで出る始末でした。
マチノキオクカンのメンバーの知り合いにも写真を見てもらい、
「(大阪南部の)阪和線や南海線には該当する場所はない。」
といった回答をいただきました。
日本航空協会のウェブサイトに挙がってから約2カ月、3枚の写真を穴が開くほどに見つめ続けて、とうとう夢の中にも出てくるほどになりました。
このままではノイローゼになり日常生活に影響が及びそう…と不安が漂い始めましたので、思い余って「禁断の」AIに救いを求めました。
「あんなに苦心したのに、最後にAIが答えをスッと出したらどうするねん」
と逡巡しつつもポチッとしてしまいました。
AIさんが出した答えは
「この3枚の写真は、かなり高い確率で佐賀県佐賀市西部(現在の「どんどんどんの森」周辺)にあった旧・佐賀紡績工場(のちの鐘紡佐賀工場)付近を撮影したものだと思われます。」
でもね、AIさん、1935年ごろに佐賀には電車は走っていませんでしたよ。
「線路脇の柱は電柱にも見えますが、1930年代の国鉄幹線では通信線用の電柱列も普通に存在しました。したがって、『柱がある=電化路線』とは断定できません。」
そうですか?
あれはどう見ても架線柱でしょう。
複線の線路を跨いで設置されてますよ。
どうも2026年のAIの限界を見たようです。
でもAIに簡単に正解を出されるよりも良かったです。
…ということで再び迷宮を彷徨っていた時、マチノキオクカンのメンバーの家族(東京在住)から突然連絡が入りました。
「これ、千葉県市川市やで」
結論から言うと、市川市鬼高にあった「(旧)共立モスリン工場」です。
市川市の公式Xに写真が載っていました。

共立モスリンは日本毛織株式会社(ニッケ)の中山工場になったそうです。
このへんの詳しくは三井住友トラスト不動産さんのウェブサイトをご覧ください。
市川市のXの写真はおそらく戦後のある時期に撮影されたもののようで、工場そのものも周辺もだいぶん変わっています。
しかし、特徴的な逆S字型の水路がはっきりと写っています。
また、工場の横をまっすぐに走る鉄道の線路や、工場のわきの三角形の池、工場内の煙突を持つ建物などが大阪飛行機研究所の写真とピタリ一致します。
1948(昭和23)年の航空写真を見ると、工場の周辺のうち東西面及び南面は一面の農地です。
大阪飛行機研究所撮影の写真と同じように、農地の区画の向きが途中で変わっています。
下の方で湾曲している大きな川は「江戸川放水路」だそうです。
同放水路は(旧)江戸川流域の洪水対策として大正時代に整備されたそうです。
写真に写っていた水路かな?滑走路かな?と悩んでいたのは、この放水路だったのですね。

航空写真を拡大すると、大阪飛行機研究所撮影の写真とほぼ同じ工場や水路、鉄道、道路、集落、池などが写っていることが確認できます。
ちなみに工場わきの三角形の池は、紡績会社の名前から「ニッケ池」と呼ばれていたそうです。
(ウェブサイト「レファレンス協同データベース」及び「クラナリ」より)

現在の地図です。
水田だったところに今では住宅などがびっしりと建ち並んでいます。
そして紡績工場はショッピングモールに変わっています。
日本毛織中山工場は1982(昭和57)年に閉鎖され、6年後の1988(同62)年にダイエー系のショッピングセンターになったそうです。
(ウェブサイト「市川みらいアーカイブ」より)

これらのことを総合して、大阪飛行機研究所の写真が撮影されたのはここに間違いありません。
一件落着しました。
